バッハ『フーガの技法』は超難解?制作までの背景などに迫る

バッハの『フーガの技法』が謎に包まれた超難解曲として知られていることをご存じですか?彼がこの楽曲を作成し世に広まってから何百年も経っていますが、音楽家や学者たちが制作背景に関して議論を交わしているようです。今回はバッハの『フーガの技法』に迫ります。

記事の目次

  1. 1.バッハ『フーガの技法』とは
  2. 2.バッハとはどんな音楽家?
  3. 3.後から後から明らかになる背景
  4. 4.バッハ『フーガの技法』の楽しみ方は様々
  5. 5.バッハの他のおすすめ楽曲3選を紹介
  6. 6.まとめ

バッハ『フーガの技法』とは

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バッハの『フーガの技法』は、その制作背景から謎に包まれた超難解曲と知られています。

ドイツ語で「Die Kunst der Fuge」英語で「The Art of Fugue」と呼ばれるこの名曲は1740年代の前半頃より、時間をかけて作られていったようです。

未完成曲として広く知られていますが、そのことすら諸説あります。

今回は世に出された『フーガ技法』の、明らかにされている事実や論議されている諸説などに迫りました。

バッハとはどんな音楽家?

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名前:Johann Sebastian Bach(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)
出身:神聖ローマ帝国(現ドイツ)
生年月日:1685年3月31日
死去:1750年7月28日

バッハは18世紀を代表するワタシ作曲家であり、17世紀のはじめから18世紀半ば頃の「バロック音楽」を語る上で外せない程の音楽家です。

日本では「音楽の父」とも呼ばれ、即興音楽に特に優れた人物ともいわれていました。

8人兄弟の末っ子で、音楽家の一族の1人として生まれています。

9歳の頃に母親が、10歳の頃に父親が亡くなっており兄に引き取られて育ちました。

勤勉な性格でも知られており、キリスト教の学校の特待生でもあったようです。

生前は作曲家というよりオルガニストとして有名だった

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バッハは1703年に宮廷楽団に入団しましたが、そこでバイオリンを担当するとともに代役でオルガンも演奏していました。

ドイツのアルンシュタットの教会で、オルガンを試奏し高い評価を得たことをきっかけに、その教会でオルガニスト・聖歌隊の指導者に任命されたようです。

オルガニストとして活躍したバッハはやはりオルガン曲を多く残しており、それらは世界中の音楽の歴史の中で大きな影響をもたらしています。

彼が即興音楽において優れていると評価されていたのも、各地のオルガンの試奏に訪れた際に即興での演奏を披露した時のことが語り継がれているからです。

彼の即興のオルガン演奏に、聴衆は驚きとともに大きく感動したと言われています。

彼のオルガン曲は讃美歌を思わせる「コーラル編曲」と、その他「自由作品」に大きく分けられるようです。

このように生前のバッハはオルガニストとして数々の功績を残していたため、作曲家としては広く知られていませんでした

音楽と向き合うために旅をしていた

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旅をすることで楽器・楽譜などの知見を得ようとしたことも、バッハの有名なエピソードの一つです。

現代でこそ旅をする際には新幹線や飛行機などの移動手段がありますが、当時の旅は過酷なものでした。

窃盗も多く各所の検問が厳しい時代です。

1705年10月にはドイツのリューベックへ、400km程の道のりを歩いて向かったと言われています。

旅行は当初4週間の予定でしたが、実際に彼が地元に戻った時には3か月以上経過していました。

視力が悪かった

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バッハの親族は生まれつき視力がよくない人が多かったようですが、彼もまたそうでした。

音楽監督官として活躍していた彼でしたが、視力低下によって「降板させられるのではないか?」となった時に目の手術を受けています。

しかしその手術は現在では考えられないほど痛々しいもので、麻酔をかけずに眼球に針を刺すというようなものでした。

結果的にこの手術は失敗に終わり、晩年はほぼ視力が無かったといわれています。

後遺症が残ってしまい飲んでいた目の薬に身体が耐え切れず、さらに脳卒中を患っていたこともあり65歳の時に逝去しました。

20人の子どもの父親だった

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バッハは先妻を亡くし、その後に再婚しています。

先妻との間に7人、後妻との間に13人もの子どもが生まれていました。

男の子は11人いましたが才能を持ったバッハの息子ということで、音楽的な期待を寄せられていたようです。

その期待に精神が追いやられ5人が早くに亡くなりました。

成人した6人はバッハの後に続くように、それぞれ大きな功績を残しています。

後から後から明らかになる背景

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『フーガの技法』は現在においてもさまざまな謎を抱えている楽曲です。

しかし科学の進歩や資料などの発見などにより、以前は明らかになっていなかった多くの謎が少しずつ解明されています。

バッハ『フーガの技法』の背景①:楽器の指定がなかった

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直筆・初版の『フーガの技法』には、鍵盤楽器での演奏を踏まえた作曲でありながら、具体的な楽器の指定がありませんでした。

これは『フーガの技法』だけでなく「対位法的鍵盤作品」と言って、他のさまざまな作曲家にもみられます。

作曲家によっては「鍵盤ではない楽器でも演奏してよい」と明言する場合もあったようです。

バッハは年齢を重ねてなお最新の様式よりも、この対位法技法という古い様式が好きだったこともあり、若い音楽家から酷評されていたのではないかと言われています。

現在では『フーガの技法』はチェンバロやオルガンやピアノ、オーケストラなどなどさまざまな形態で録音されており名盤も多いようです。

バッハ『フーガの技法』の背景②:初版楽譜と直筆譜が大きく異なる

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直筆・初版ともに具体的な楽器の指定がない対位法的鍵盤作品という点では共通していますが、この2つの内容は大きく異なっています

これはバッハの息子たちをはじめ弟子たちも『フーガの技法』にバッハが込めた意図を、正確に捉えることができなかったからだといわれているようです。

家計が苦しく一刻も早く作品を出版したかった親族の焦りもあったとされていますが、この辺りも『フーガの技法』が超難解曲だと言われる理由になっています。

ただでさえ「鏡像フーガ」という、曲全体を鏡で映して反転させたような珍しい技法も用いられていました。

複雑な楽曲が、急いで出版したばかりにさらに複雑化してしまったといわれています。

1977年頃に公表された記録で既に、88通りもの楽曲配列の解釈があったそうです。

『フーガの技法』はバッハの死の翌年に出版されましたが、初版に印刷された楽譜は第13曲までは彼自身によって校訂されたことは、間違いありません

しかしその後の曲順をバッハがどういう意図で制作してたのか、今もなお判明していないままのようです。

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バッハ『フーガの技法』の楽しみ方は様々

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