うちで笑おう!志村けんさんのいた『ザ・ドリフターズ』は永久に不滅です!

あなたは『ザ・ドリフターズ』を知っていますか?
コメディのグループとして有名な彼らですが、実は凄腕のミュージシャン集団でもあるのです。今回はそんな幅広い才能を持つエンターテイナー集団ザ・ドリフターズについて解説させていただきます。

記事の目次

  1. 1.日本中のお茶の間を笑いに包んだドリフターズ
  2. 2.個性豊かなドリフのメンバー紹介
  3. 3.ミュージシャンとしてのドリフターズ
  4. 4.コントグループとしてのドリフターズ
  5. 5.[追悼]志村けんさんありがとう
  6. 6.ドリフターズについてまとめ

日本中のお茶の間を笑いに包んだドリフターズ

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1970年代から80年代頃にかけて、日本のお茶の間にたくさんの笑いをもたらしてくれたザ・ドリフターズ。75年生まれの私にとっては、子供時代の人格形成時において多大な影響を与えてくれた、大きな存在です。

まず、友達に会ったら『オイッス!』(これはいかりや長介さんが観客に向けた挨拶。これを受けた子供たちは元気に『おいっすー』と返します)

ジャンケンをする時には『最初はグー』(これは志村けんさんの『最初はグー、またまたグー、いかりや長介(チョキ)、頭はパー』から。全国的に大流行)

誰かが『ちょっとだけ』といえば心の中で『あんたも好きね〜』と呟き(もちろん加藤茶さんの鉄板ネタ)、どこかで『そうです』という声が聞こえれば、『私が変なおじさんです』と続きたくて仕方がない。(これは志村さんのソロ時代ですが)

そんな風に私の身体に染みついてしまったドリフイズム。今、世の中は大変な事になってしまっています。テレビからも何やら心配なニュースばかりが聞こえて来ます。

こんな時代だからこそ、ドリフの笑いが必要なのではないでしょうか。笑いが身体の免疫力を高めるというのはよく知られています。

先日、新型コロナウイルスへの感染による肺炎のため、多くのファンから惜しまれながら志村けんさんがお亡くなりになりました。今回は追悼の意を込め、私の大好きなザ・ドリフターズについて、志村さんについて書かせていただきたいと思います。最後までお付き合いください。それじゃいってみよー! ちょっとだけよ。

個性豊かなドリフのメンバー紹介

この写真だけでもワクワクしてしまいますね。何か楽しませてくれそうな予感でいっぱいです。そんなザ・ドリフターズの個性豊かなメンバーをご紹介いたします。
(ドリフターズの歴史は大変長いので、ここでは志村けんさん加入後のメンバーに限定させていただいています)
 

いかりや長介

いかりや長介さんは1931年東京都出身。175cmの身長は最近では、それ程大きい方でもありませんが、小柄なドリフのメンバーの中ではひときわ長身に映ります。180cm以上はあるのだと思っていました。

『長さん』のニックネームでメンバーから時には恐れられながらも慕われ、愛され、ドリフのリーダーとして黄金時代を築きました。初期のネタはほぼ長さんが考えていたといいます。

幼い頃に母親を病気で亡くし、築地の魚河岸で働く父親に男手ひとつで育てられます。後に自伝『だめだこりゃ』の中で、自分に最も影響を与えた人物であると振り返っています。

高校中退後『女の子にモテたい』気持ちでバンドをはじめ上京した長さんはロカビリーバンドを組み、米軍キャンプなどで演奏をはじめます。今も昔も僕たちはみんな、いつでもそうです。女の子の事ばっかり考えています。ちなみに最初はスティールギターを演奏していましたが、途中からベースに転向しています。

その後、小野ヤスシさんなどが在籍していたザ・ドリフターズに加入します。同時期に加藤茶さんも加入をしています。もともとあったグループなのですね。

ザ・ドリフターズのリーダーであった桜井輝夫さんが引退すると、長さんが新リーダーとなり加藤茶さん以外のメンバーも独立、その後高木ブーさん、仲本工事さん、荒井注さんらが加わり新生ザ・ドリフターズが誕生します。皆さんがよく知っているドリフのメンバーですね。(荒井さん脱退後はご存知、志村さんが加入)

渡辺プロダクションに入ったドリフの先輩には、当時人気絶頂のハナ肇とクレイジーキャッツがいました。ナベプロは同じようにコミックバンドとしてドリフを売り出し、実際に初期のドリフはバンドで演奏しながらコントをしていました。

『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』でコントの世界で大成功をおさめ、一時代を築きます。コントの中では支配的なボスという役割で、基本的にはメンバーにツッコミを入れます。決め台詞『全員しゅごーう!』といってメンバーを集めます。

『オイッスー!』『次、いってみよーう』『ダメだこりゃ』などの決め台詞はよく物真似されるほど有名です。

『8時だョ!全員集合』が1985年に終了した頃、役者としての仕事もこなすようになります。お笑いの時のイメージとは違い、味わい深い、渋みのある役者として活躍しました。特に『踊る大捜査線』シリーズでベテラン刑事の和久平八郎役の演技は高い評価を受けていて、若い世代の人にはそちらのイメージが強いかも知れませんね。

2004年に癌の転移により72歳で亡くなっています。告別式で高木ブーさんが『バカヤロー!』と叫びながら泣いていた話が印象的です。

動画はコメディアンというよりは、俳優、ミュージシャンとしての『いかりや長介』さんの魅力が伝わってくるものです。

ベーシストとしても、『いかりや奏法』と呼ばれる親指で弾く特徴のある演奏が有名ですね。あの奏法はピックを持っていると、コントがしにくいからという理由で生まれたそうです。

高木ブー

高木ブーさんは1933年、東京巣鴨に6人兄弟の末っ子として産まれました。中学生の時にウクレレに出会い、音楽に夢中になります。

中央大学卒業後、東京ガスの内定が決まっていたのですがそれを蹴って、プロのミュージシャンとして活動をはじめます。

当時はバンジョーやエレキギターの担当で、自身がリーダーを務めるバンドで米軍キャンプなどで演奏をしていました。

そんな活動をしているうちに、欠員を補充しようとしていたザ・ドリフターズのメンバーに声をかけられます。

自身の楽器の腕前を見込んで声をかけられたと高木さんは思っていましたが、後に長さんの著書の中で『体型がコメディ向きだったから』と、まあ半分は冗談でしょうが、打ち明けられいます。

その肥満気味の体型で、先輩のハナ肇さんから名づけられた芸名が現在の『高木ブー』という事です。

アキレス腱を断裂し、一時期活動を休んでいた時に本人から脱退を希望したことがありました。しかし、それを聞いたいかりや長介さんの必死の説得により、思いとどまったという経緯があります。リーダーとして、高木さんのグループにおける重要性を十分に理解していたのでしょうね。

いかりや長介さんは歳が近いという事もあり、仕事の後に高木さんだけ連れ出して飲みに行く事が多かったそうです。そこで、他のメンバーには言えない仕事の愚痴を高木さんにこぼしていたそうです。何でも受け止めてくれそうですもんね。

『5番目の男』とか『無能の人』なんて言われ方をする事もあります。加藤茶さん、志村さん、そしてリーダーのいかりやさんがどうしても目立つザ・ドリフターズですが、引き立て役に徹する事が出来る仲本工事さん、そしてこの高木ブーさんなしではここまでの伝説的なグループにはなっていなかったのではないかと思います。

いかりやさんは高木さんの事をグループの音楽的な面に於いて最も評価していたといいます。ウクレレ奏者としてはもちろん、ギターもボーカルも相当の実力の持ち主である事が動画からも伝わってきます。

高木さんのエピソードとしては、筋肉少女帯が『元祖高木ブー伝説』という楽曲をリリースした際、事務所が激しく抗議や反発をしたのですが、高木さん本人が『若い奴が頑張って面白い事やろうとしているんだから、許してやろうよ』と言ったおかげで、リリースする事ができたそうです。

これを機に高木さんが筋肉少女帯のコンサートに足を運んだり、フロントマンの大槻ケンヂさんも高木さんの経営するバーでライブをしたりするなど、親交が出来たそうです。これこそ、高木さんの懐の深さですよね。成功する人はやはり人間力があります。

愛妻家であった事でも有名な高木さん。ドリフの中でもただ1人の女性と添い遂げた、唯一のメンバーが高木さんです。まだドリフが売れない時代から支えてくれた奥さんを、ドリフがどれだけ有名になっても大切にしてきた高木さんは、本当に素敵でかっこいい男だと思います。

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仲本工事

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