うちで笑おう!志村けんさんのいた『ザ・ドリフターズ』は永久に不滅です!

あなたは『ザ・ドリフターズ』を知っていますか?
コメディのグループとして有名な彼らですが、実は凄腕のミュージシャン集団でもあるのです。今回はそんな幅広い才能を持つエンターテイナー集団ザ・ドリフターズについて解説させていただきます。

記事の目次

  1. 1.日本中のお茶の間を笑いに包んだドリフターズ
  2. 2.個性豊かなドリフのメンバー紹介
  3. 3.ミュージシャンとしてのドリフターズ
  4. 4.コントグループとしてのドリフターズ
  5. 5.[追悼]志村けんさんありがとう
  6. 6.ドリフターズについてまとめ

仲本工事

仲本工事さんは1941年に東京駅渋谷区に生まれました。東京都立青山高等学校時代は、体操の選手として活躍していました。その後のドリフのコントでも、その身体能力の高さが活かされています。

また、学業も優秀で弁護士を目指していた時期もありました。学習院大学在学中にジャズバンドにボーカリストとして参加します。バンジョー奏者であった高木ブーさんとはここで知り合っています。また、クレイジー・ウエストというバンドでは加藤茶さんと一緒であった時期もありました。

その後、高木さんの紹介でザ・ドリフターズに加入します。『工事』という名前は例によってハナ肇さんが名付け親で、仲本さんが当時怪我が多かった事から、『君は身体がいつも工事中だな』という理由で命名されました。

黒縁メガネがトレードマークの仲本さんですが、実は視力はとても良かったそうで、これはいかりやさんのアイデアによる、キャラ作りの為の伊達メガネだったそうです。確かに、グループにひとりメガネの人がいると印象に残りますね。

ドリフのコントにおいて、志村けんさんや加藤茶さんにどうしても目がいってしまいますが、高木ブーさんしかり、この仲本工事さんがいつだってしっかりと彼らのボケを受け止めて、ギャグには全力でこけて、ドリフの笑いをわかりやすく伝えてくれている点は、忘れてはいけません。

仲本さんや高木さんがいるからこそ、ドリフはどんなに下品な事をやっても、どこかに品格や知性を感じさせてくれるのでしょう。子供からお年寄りまで楽しめるお笑い番組と言われる所以であります。

ビートルズが初来日した時にザ・ドリフターズが前座を務めていたのは有名な話ですが、その時にボーカルをとっていたのが仲本工事さんです。

仲本さんはボーカリストとしてもギタリストとしても素晴らしいのですが、何と言っても彼の身体能力に高さを活かしたコントを見ていただきたく、上の動画を選んでみました。
 

加藤茶

加藤茶さんは1943年に東京都世田谷区に生まれました。父親はギタリストの平八郎さんです。

先輩から捨てておいてくれ、と渡されたドラムスティックでドラムを練習し、仲本工事も在籍していたバンド、クレイジーウエストのドラマーとして参加します。上の動画ではドラマーとして、素晴らしい実力の持ち主である事がわかります。

1962年、いかりや長介さんと同時期にザ・ドリフターズに加入します。ドリフにとって初めてのレギュラー番組となる『ホイホイ・ミュージック・スクール』の中で、取れそうになる付け髭を何度も2本指で押さえたのが、現在までも有名な加藤茶さんの代名詞ギャグ『カトちゃんペ』の始まりでした。

1964年に起きたドリフ内紛によって、いかりや長介さんと加藤茶さん以外のメンバーは『ドンキーカルテット』として独立してしまいます。今となってみれば、それが分岐点だったのかも知れません。

新たにメンバーを加えた新生ドリフターズは、ここから快進撃を見せました。『茶』という名前は、やはりというか先輩のハナ肇さんによって『芸能で生きていくなら、水に関係がある名前が良い。「加藤ちゃん」と呼ばれてるから、『加藤茶』がいいよ!』と命名されました。

ちょっとだけよ

加藤茶さんは志村けんさん加入までは、グループのギャグを一手に引き受けているような存在でした。持ちネタの多さは、メンバー随一なのではないでしょうか。

前述の『かとちゃんぺ』や『ちょっとだけよ』は当時の子供達は、誰もが真似したのではないでしょうか。

ドリフターズ解散後も天才肌の芸能センスを遺憾なく発揮し、バラエティ番組はもちろん、俳優業もこなすなど、マルチな才能を見せています。

2011年、68歳の時には45歳年下の綾菜さんと結婚を発表し、話題を呼びました。

志村けん

志村けんさんは1950年に、東京都東村山市に生まれました。芸名の「けん」は厳格な教師であった父親・憲司からとっています。

志村家は厳格な父親が雰囲気を支配する、重苦しい空気だったそうです。しかし、テレビのお笑い番組を見ている時だけは、家の空気が明るくなる気がして、いつからかお笑い芸人を目指すようになります。

中学校時代は文化祭などでコントを披露し、また音楽にも興味を持ち、バンド活動も行っていたそうです。

東京都立久留米高等学校時代はサッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍していました。元日本代表、川崎フロンターレでいぶし銀のプレーを見せる、中村憲剛選手の大先輩にあたります。

高校卒業を間近に控えた1968年の2月、ザ・ドリフターズに憧れていた志村さんは、いかりや長介さんの家に直接押しかけ、弟子入りを懇願しました。雪のちらつく中何と12時間もいかりやの帰宅を待った志村さんでしたが、門前払いを受けます。それでも諦めずに食い下がった根性を買われ、バンドボーイの控えとして仮採用されます。

1週間後に正式に採用を伝えられ、『では、卒業したら行きます!』と答えると、いかりやリーダーから『バカヤロー明日から青森に行くんだよ!』と言われすぐに青森への巡業に同行するなど、いきなり多忙な芸能生活がはじまりました。人生とは、その時々のちょっとした選択で大きく変わってしまうものです。

卒業式の当日も少しだけ時間をもらい出席し、すぐに仕事に戻ったと言います。そして加藤茶さんの付き人となり一度は逃げ出すものの、また出戻り付き人兼居候として、加藤家の住人となるのでした。

ドリフターズ加入前の22歳の時には、『マックボンボン』というお笑いコンビでデビューを果たしていますが、鳴かず飛ばずのまま消滅し、1974年に荒井注さんの脱退したザ・ドリフターズに正式に加入を果たします。この時、いかりやさんは他のメンバーの加入を考えていたそうでしたが、加藤さんの強い推薦によって志村さんが起用されました。

加入後最初は志村さんのギャグはあまり受けず、2年程は試行錯誤を繰り返しますが、合唱団コントの中で彼の地元である『東村山音頭』を歌い、それが受けた事により、志村けんさんは一躍人気者となりました。

加藤茶さんとの息の合ったやり取りやヒゲダンス、年長メンバーがやらないような振り切ったキャラ設定などが多いに受け、加藤茶さんと並ぶコント部門のツートップとして子供を中心に時のヒーローのような存在となります。

私がどんな時でも、どんなシリアスな場面でもどこか少しだけ、ほんの少しだけふざけているとしたら、何かおもしろい事言いたがってるとしたら、それは志村さんの影響であると思います。その事は誇りに思っています。

次のページ

ミュージシャンとしてのドリフターズ

関連記事

Article Ranking