【スピッツ】天才と名高いベーシスト田村明浩とは?詳細プロフィールご紹介
長年に渡り高い人気を誇る「スピッツ」のベース田村明浩さん。ベースという縁の下の力持ち的ポジションでありながら、「スピッツ」のライブではその存在感は草野マサムネさんをも覆ってしまう程だといいます。そんな田村さんの魅力について本気で考えちゃいました。
大人気ロックバンドスピッツの天才ベーシスト田村明浩とは?
91年のメジャーデビューから長きに渡り活動を続け、支持を受け続けるバンド「スピッツ」。草野マサムネさんの唯一無二の歌声、その天才的な歌詞や美しいメロディーは言うに及びませんが、デビュー当時から変わらないメンバーによる、質の高い演奏はミュージシャン達からもリスペクトを受けています。
マサムネさんの歌を彩るのは、もちろん三輪テツヤさんによるクリーンなアルペジオやメロディアスで時にはハードなギタープレイでしょう。イントロだけでも、「スピッツだ!」とわかる様な三輪さんによる他の追随を許さない演奏は、スピッツサウンドの色を決める上で非常に重要なポイントになっています。
そんな印象的なボーカルやギターを支え、バンドとしてのサウンドを決定づけているのが、崎山龍男さんのドラムと、田村さんのベースによるボトムラインです。ここがしっかりとしていないと、バンドは成り立ちません。サウンド的に決して派手な事はしていませんが、この2人があってのスピッツである事は間違いありません。
今回はそんなバンドのサウンドを支えるベーシストの田村さんにスポットを当て、そのプロフィールや天才と呼ばれる所以、使用機材まで解説していきたいと思います。
スピッツベース担当 田村明浩のプロフィール
ではここでスピッツのベース担当、田村明浩さんのプロフィールをご紹介します。
1967年、静岡県の藤枝市で生まれます。実家は「藤枝サザンホテル」というビジネスホテルを経営していたそうです。
小学6年生の時に転校してきた三輪テツヤさんと知り合い、のちに2人は「田村バンド」というバンドを結成します。という事は、この2人はかれこれ40年来の付き合いという事になりますから、ビックリです。
中学校では卓球部に所属していました。学業は優秀であったので、藤枝東高校という進学校に進みます。尚、この時同級生には元サッカー日本代表の“ゴン”こと中山雅史さんがいました。後に2人は対談もしていますが、スピッツのメンバーだと知った時は、「あの地味だった田村?」と驚いたと言いますから、それ程目立った存在ではなかった様です。
高校時代からはさらに音楽にのめり込んでいったそうです。その後、東京造形大学に進学して、ここで草野マサムネさんと出会いを果たし「スピッツ」の原型が作られます。
2人は重音部に所属し、一緒にバンド活動をしていました。「チーターズ」という水前寺清子さんのニックネームに因んだバンド名で「365歩のマーチ」を激しく演奏するなど、当初はパンクロックのバンドとして活動していました。
バンド名を「ザ・スピッツ」と変更し、いよいよ盛り上がるのかと思いきや、マサムネさんはTHE BLUE HEARTSの「人に優しく」を聞いて、衝撃を受け、打ちのめされてしまいます。
「自分のやりたかった事をこんなにカッコよく出来る人達がいるんなら、俺がやらなくてもいいじゃん。俺、ブルーハーツのファンでいれたらいいや。」と、「ザ・スピッツ」は活動を休止してしまいます。マサムネさんはその後武蔵野美術大学に入学し直したので、バンドは自然と消滅してしまいました。
しかし、田村さんの家にはテレビゲームがあり、マサムネさんは変わらず遊びに来ていたので、関係は続いていました。
マサムネさんは或る日ついに、バンド活動を再開する事を決意し、田村さんに相談をしました。それを受けて田村さんは昔一緒にバンドをしていた三輪さんに連絡を取りました。上京していた事を知っていたのです。
文化服装学院に通っていた三輪さんは、バンドのドラマーとして同じサークルにいた崎山さんを誘います。こうして「スピッツ」は結成しました。1987年の事です。