【年表あり】ショパンの生涯を生い立ち〜代表作まで簡単にご紹介!
「ピアノの詩人」と言われているショパンは、39年という短い生涯の中で200曲以上ものピアノ曲を遺しました。クラシック音楽に詳しくなくても、彼の曲は必ずどこかで聞いたことがあるでしょう。今回はショパンの生涯から代表曲までを、分かりやすく簡単にご紹介します!
ショパンの生涯の歴史年表
ここからは西暦と共に、ショパンの生涯と当時作曲された代表曲をご紹介します。
1810年(0歳)
ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで誕生。
父はフランス人、母はポーランド人。
1814年(4歳)
母や姉からピアノを習い始める。
1817年(7歳)
6歳頃からピアノ教師・作曲家のヴォイチェフ・ジヴニーから指導を受け始め、7歳でポロネーズ(現在のポロネーズ第11番ト短調)を作曲する。
1818年(8歳)
ワルシャワで初めての演奏会を開き、「モーツァルトの再来」と称賛される。
1823年(13歳)
高等学校に入学する。
後にショパンの遺作を出版する友人、フォンタナと出会う。
1826年(16歳)
ワルシャワ音楽院に入学する。
当時の学長であるユゼフ・エルスネルから「音楽の天才」と評される。
1829年(19歳)
ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、ウィーンで演奏会を開く。
当時作曲された「ワルツ第13番」は、同じワルシャワ音楽院出身のオペラ歌手コンスタンツヤ・グワトコフスカ(ショパンが想いを寄せていた女性)のために書かれたという逸話がある。
1830年(20歳)
この頃に作曲されたノクターン第20番は、ショパンの姉ルドヴィカにピアノ協奏曲第2番を習得してもらうために書いたと言われている。
(ピアノ協奏曲第2番に使った旋律を、ノクターン第20番にも使っている。)
- ピアノ協奏曲第2番
- ノクターン第20番(遺作)
1831年(21歳)
ロシア帝国の支配下でその圧政に苦しめられていたポーランド人の人々が、自由を求めて武装蜂起するも失敗に終わり、ショパンは怒りと絶望に突き動かされて「革命」という曲を書いた。
- ノクターン第2番
- エチュードOp.10-12「革命」
1832年(22歳)
パリで演奏会を開き大成功を収め、ショパンの名前がパリの社交界に広まる。
リスト、ロッシーニ、メンデルスゾーン、シューマンなど当時活躍していた音楽家たちとも知り合う。
「12の練習曲Op.10」はリストに献呈された。
- マズルカ第5番
- 別れの曲(エチュードOp.10-3)
1833年(23歳)
- ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」
1834年(24歳)
ショパンのもとには貴族の夫人や娘たちがピアノのレッスンを受けに来ており、それでほぼ生計を立てていた。
- 即興曲第4番「幻想即興曲」
1835年(25歳)
ドレスデンでポーラン人貴族のヴォジンスキ伯爵一家と出会う。その娘、マリアに恋に落ちてしまう。
パリに戻る際、ショパンは彼女に「ワルツ第9番(別れのワルツ)」を贈る。
- 別れのワルツ
- バラード第1番
1836年(26歳)
マリアにプロポーズし受け入れられたものの、彼女の母親はショパンの健康状態が良くないことを気にして婚約延期となってしまう。
後の恋人となる女流作家のジョルジュ・サンドと出会う。
- エチュードOp.25-11「木枯らし」
1837年(27歳)
マリアと手紙のやり取りを続けていたが、ショパンの健康が改善されないことから結局婚約は破談となる。
1838年(28歳)
ショパンに熱烈な好意を抱いていたジョルジュ・サンドとの交際が始まる。
ショパンの療養のため、サンドとともにスペイン領のマヨルカ島を訪れる。
1839年(29歳)
マヨルカ島の天候が悪化したため島を離れ、サンドの別荘があるフランス中西部のノアンへ移住する。
- ポロネーズ第3番「軍隊ポロネーズ」
- 前奏曲第15番「雨だれ」
1840年(30歳)
サンドとともにパリへ戻る。
- ピアノソナタ第2番「葬送」
1841年(31歳)
プレイエルでコンサートを開き大成功を収める。
春夏はノアン、秋冬はパリで過ごすという生活を送る。
- 幻想曲Op.49
- バラード第3番
1842年(32歳)
体調が良くなり作曲に集中。名曲が次々と生まれる。
- バラード第4番
- ノクターン第13番
- ポロネーズ第6番「英雄ポロネーズ」
1843年(33歳)
サンドの連れ子である息子モーリスと娘ソランジュは仲が悪く、ショパンもその対立に巻き込まれていく。
1846年(36歳)
インフルエンザにかかるなどショパンの容態が悪くなり、サンドはその看護に疲れていた。
サンドはショパンの友人も集まる中でショパンを中傷するような小説を朗読し、2人の仲も悪くなってしまう。
1847年(37歳)
サンドとの決別。サンドは後のショパンの葬儀にも現れなかったと言われている。
- ワルツ第6番「子犬のワルツ」
1848年(38歳)
パリでの最後の演奏会を開く。
イギリスへの演奏旅行ではヴィクトリア女王の前でも演奏し大成功を収めるが、体調が悪くなりパリへ戻る。
1849年(39歳)
肺結核のため容態が悪化。10月17日、39年の生涯を閉じる。
ショパンの心臓は遺言に従い、祖国ポーランドの聖十字架教会に収められた。
まとめ
いかがでしたでしょう。今回はショパンの生涯と、歴史年表をご紹介しました。普段ショパンの曲を弾いている方も、ショパンについて理解が深まれば幸いです。
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