【フジファブリック】天才として今なお語り継がれる志村正彦とは一体?
2019年で結成15周年を迎えたフジファブリックと、十回忌を迎えたボーカル・志村正彦。彼の音楽性はいろんな人たちを惹きつけていました。この記事では志村正彦の魅力とフジファブリックの現在について、わかりやすく解説していきます。
邦楽ロックバンド・フジファブリックのボーカルを務めた志村正彦
2009年12月24日、音楽界に衝撃のニュースが届きました。
フジファブリックのボーカル・志村正彦さんが急逝。
ファンのみならず、多くの音楽関係者をも驚かせた報せでした。
2009年の12月24日。雪降りしきり街賑わうクリスマスの日に、志村は亡くなった。
知っている人が亡くなるということ自体、当時の僕には無縁の出来事だった。あの日のことは今でも忘れることができない。心にはポッカリと穴が空いたような気がした。
なぜ、ここまでにいろんな人達へ衝撃を与えたのか。
そして、今もなお語り継がれる、志村正彦さんの凄さとは。
こちらの記事では、フジファブリック・志村正彦さんの魅力について解説いたします。
フジファブリック・志村正彦さんのプロフィール
フジファブリックは2000年に志村正彦さんを中心に結成されたロックバンド。
結成当初のバンド名は「富士ファブリック」でした。
2002年にインディーズで1stミニアルバム「アラカルト」をリリースし、何回かメンバー編成を変え、2004年に4月に現メンバーを含む5人でメジャーデビュー。
最初の曲は「桜の季節」でした。
志村正彦さんは、山梨県の富士吉田市出身。
幼少期は、野球少年で、自身のブログ「志村日記」などでも、巨人の話題を出したりするほどの野球好きでした。
中学2年生の時に同級生でバンドの初代メンバーだった渡辺さんに誘われ、奥田民生さんのライブを見たことをきっかけに音楽の道を志し始めました。
志村さんが上京した当時、ライブハウスで共に働いていたという氣志團の団長こと綾小路翔さん。
先日放送されたドキュメンタリー番組「LIFE of FUJIFABRIC」内でも思い出を語り、「あいつ、俺に頭上がらないはずなんですけどね」と、笑いながら語っていました。
その時の縁で、「One Night Carnival」のインディーズ版には志村さんがコーラスとして参加されています。
天才と呼ばれた志村正彦のフジファブリック名曲ご紹介
こちらの項目では、志村さんが作った曲のいくつかをご紹介させていただきます。
気になった方は、iTunesなどで購入、または各音楽配信サイトで聞いてみてはいかがでしょうか。
陽炎
2004年7月に発売された2ndシングル。
1stシングルから4thシングルまでのシングルを「四季盤」と名付けられ、陽炎は「夏盤」の曲となっております。
歌詞に出てくる「路地裏の少年」は、現在、志村さんの故郷・富士吉田市で、志村さんの活動を伝える同級生たちのグループ名「路地裏の僕たち」の名称に使われております。
赤黄色の金木犀
2004年9月に発売された3rdシングルであり「秋盤」の曲。
演奏時間は3分57秒と短いですが、あっという間に過ぎ去ってしまう秋の切なさを描いた一曲。
2019年に行われたファン投票「FAB LIST I - 2004~2009」(東芝EMI期の楽曲)では、1位を獲得しております。
銀河
2005年2月に発売された4thシングルであり「冬盤」。
独特のリズムと不思議な世界観のPVがファンの間では人気となり、現在でもライブでは欠かせない1曲となっております。
ちなみに、「銀河」について、当時のプロデューサーだった片寄さんは、こんなエピソードを語っておられます。
そして志村くんが「冬盤の歌詞出来ました。」と言って1枚の紙を持ってきた。
どれどれ、と思って読んでみると、以前の歌詞と一字一句まったく変わっていない。
あの暗い子犬のような目をして、志村くんは僕の答えを待っていた。
この歌詞から僕が受け取ったのは志村くんの「ここから逃げ出したい!」という強い気持ちだった。1stアルバムにしてすでに楽曲制作に追い詰められる日々を過ごしていた志村くん。
彼が当時抱えていたプレッシャーが、すでに相当なものだったことを僕は知っていた。
これが志村くんの歌いたいことなんだ。別にヒットするとかしないとか、大衆の共感とかどうでもいいや。プロデューサーとしては失格かもしれないが、僕はそんな風に思ってしまったことを告白する。「オッケー、じゃあ歌入れしようか!」僕がそう言うと、志村くんは「はい!」と言ってブースに入っていた。
志村さんの魂が入った歌でもあったんですね。